先年、余命いくばくもなし…と宣告されながらも、最後まで「仕事」を捨てずに頑張りつづけたとか。医者に育てたご長男に脈を取られての最期は静かな「大往生」であったと奥方の話。 この春先ごろだったか、「あぁイリエだけど、元気? 君ねぇ、『伊勢湾台風』に関する文献しらないか…」との電話。 彼からのコンタクトはいつも、こんな風に“唐突”にくるのが常だった。侵されている不治の病には一言も触れなかった。 同じ小・中・高校の同期生だがクラスメートであったことはない。出逢いは卒業後、四半世紀たった頃に中学時代の同期生たち10名ほどの会合で一度。そのあと15,6年たった霞ヶ関での東京同窓会が2度目だったか。1999年、銀座にある彼の母校同窓会クラブを会場に借りて開いた第1回の関東地区同期会開催に幹事団として、ひと汗をかいたあと事後処理やらなにやらで2度3度と交流を重ねているうちにナントナク親交が深まっていった。新宿の「I'llstar」(Karaoke)で、ふたりだけでよく唄ったりもした。 親交を深めた縁は「えん」(同人誌)であった。彼が連載投稿していた「海外駐在体験記」の出版準備を手伝って欲しいといった類のことだった。それこそ“唐突”な発想で、とても金になるような文とは思えなかったが、あからさまには口に出来ず、手書き原稿のデータベース化と推敲などを手伝うはめになった。 結構な欲張り屋だったのだろう。一流商社の営業本部長まで勤めあげたものの、会社の倒産・破綻の憂き目に巡り合いサラリーマン栄光の道を閉ざされ、小さな商社のコンサルタントを請負ながら、自ら起業家をめざして、戦前歌謡曲のリバイバルに手を染めたり、画廊の新設に首を突っ込んだり…と八方に網を投げていた一方で、学芸員の資格に挑戦とか言って猛勉強もしていた様子だった。 いつも“唐突”に電話が掛かって、 「あのねぇきみ、マルチメディアってなんだい?」だとか「都内のレコーディングスタジオを紹介してくれないか?」だとか、「近くアメリカの大陸横断鉄道に乗る予定だが、出発地のシカゴはどんな街かな〜君行ったことあるだろ?」などなど、背景を知らされていない当方には、とんと脈絡の無いハナシばかり。こちらがやたら多忙な時には「そんなこと、知りたけりゃ、図書館へ行くかネットで調べろよ!」と冷たく言ってしまったこともあった。 それでも暫くたつと、全く別の話題を、まるで先刻ご承知の仲間相手に話すように、「あさって夜、某レストランで開催の韓国女性歌手のディナーショウなんだが、会場の音響セッティングをやる人間がいなくてね。キミが来てくれると助かるが…」などと平然とのたまわるような姿勢は、その“氏”から推察されるようにまるで『優雅な公達』だった。 こと、パソコンの扱いも決して得意とは言えないほうで、データ保存からメールのやり方まであなた任せ。「ならば、PKOへおいでよ!」と幾度も誘ったが、三茶に顔を出したのは1度っきりだったか。「ボクは土曜日だって忙しいンだ。遊んでるヒマはないよ!」と…
そういえば、しばらく電話がないな〜と、ふと思ったのも今夏、郷里での恒例同窓会前夜祭の写真を「談話室」で拝見しながらのことだった。(今にし思えば、ムシの知らせだったのか?)
そこへ舞い込んだ訃報… これまたいかにも彼らしく“唐突”の知らせだった。「誰にも知らせなくていい。家族だけに見送られて逝きたい…」そう願ったという“いささか早すぎる旅立ち”は、本人も周りも痛恨の極みと言うしかない。
今はただご冥福を祈るのみ 合掌 |
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[4642] RE:入江央君を悼む 名前:yama 日時:2014/10/04(土)
13:15 |
昭和50年ごろ数回でた東京同窓会で会ったのが卒業以来初めてで最後だったのかなあ。 ご冥福を祈ります。 |
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