2007/10/10   ☆G

卒業アルバムから
( 誠道武光居士 )






  別れの衝撃

 半ば覚悟をしていたつもりではあったが、いざ“Okera逝く”の悲報に直面すると 一瞬言葉を失った。
 呆然自失とはこのことか? 
 空を見上げても溢れる涙のとどまらぬ瞼になぜか、前日遊歩道に見かけた光景が浮かんできた。
 それは、
 いつまでも厳しかった残暑を恨むが如く路傍に仰臥した蝉の骸であった。
          
   天仰ぎ 蝉骸のごとに 哭く (てんあおぎ せみなきがらの ごとになく)  〜☆G*〜

   闘病の中で…

 自ら企画し、津高放送部OB仲間や同期生有志を加え肝胆相和して楽しんだ東南アジア旅行から戻った直後の2007年4月、体調を崩して入院した“オケラさん”が、実は不治ともいえる難病だと訊いたのは梅雨の盛りの頃のこと、紀公子夫人からの電話だった。
 「幼い頃からの親友だからこそ打ち明けますが…」との声には永年連れ添ったオケラさんを支える毅然とした意思が感じられ俄かには信じがたかった。
 間もなく、その道有数の専門医による最善の外科手術が済んで、養生治療のため内科病棟へ移ったことを聞き及ぶ段になると、嫌な話に耳を伏し良い話だけ信じたがるのが人の常か、“さすが近代医学は凄い…”と単純に歓喜に浸った。
 手術後の養生の甲斐あってか週末の外泊許可が出た7月のはじめ、インターネット電話Skypeのモニターに登場した彼のプロテクターを纏った姿はいかにも物々しくも痛々しくもあったが、それでも生身の“オケラさん”であることには違い無く、正式の退院も近いことと受け止められるほどに回復は順調な様子だった。
 インターネット通信Skypeは無料なこともあって、話し出すとついつい長くなるのが常だったが、この日も「難病を抱えるという点では4年近く先輩だから、生活信条や気持ちの持ち方ならアドバイスしようか・・・」などと1時間余も、話し込んだ。
  オケラさん当人の言も「さすがに運転は無理だろうから、愛車BMBは令息に譲って地下鉄駅の近傍に転居をするつもりだ」とか、「WindowsVistaの新機種購入のモデル選びをはじめた…」とかめげることなく前向きに生き続ける強い姿勢が汲み取れた。
 そして3週間後には“治療完了で退院!”との報を聞き、改めて先端医学のすざましさを再認識させられた思いもあって、同期生やクラブOB仲間の掲示板に「オケラさん退院す!」の情報を率先して流した。
 やがて、夏向きに涼やかなプロテクターに変ったと…また30分強の通話、その翌日はPKOメンバーともども三軒茶屋の会場との間でおしゃべりの花が咲き、遠からずにAOPやTOP32への復帰も叶うこととすっかり信じるに至っていた。

 そんなオケラさんが再入院したとの報は盆明け過ぎて尚残暑のきびしい頃だった。本人の携帯にメールを入れたが返信も無く、倭神豚氏*からの情報も予断を許さぬ病状と不安に満ち、夫人から様子を伺いたくも何となく様子を訊くのがつらくて気後れし、日延べに日延べして遂に運命の日を迎えてしまった。
後悔しても後悔しきれぬ。  それにしても、まさかこれほど早く旅立ってしまうとは…。


痛ましいプロテクター姿
(↑07/01   ↓07/26 )

PKO会場とSkype通信
(2007/07/27)

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  思い起こせば…

 最初の予兆は昨年秋(2006/10)にあった。 隔年開催される恒例の放送部OB会を伊豆天城で開いたときのことであった。
 遡る3年前に郷里に遊んだ帰路突然の病で倒れ療養のため前回の湯ノ山での会を欠席した小生は、4年ぶりの再会出来たという喜びもあって、熱海駅集合時点から、仲間の顰蹙を買うほどにはしゃぎまわっていた。それに引き換え、オケラさんは「風邪をこじらせたようで声が出ないンだ」と、チャーターバスの中での各自近況報告もマイクを紀公子夫人(S34卒)に委ねて、終始おとなしく微笑んでいた。
 それでもこの旅行のなかで発案された翌春のヴェトナム・カンボジャ旅行計画には、倭神豚*氏ともども幹事役を請け負って意欲満々だった。
 OB会の翌11月にはご夫妻でインド北部を旅行し、その記録をホームページに掲載して意気軒昂の様相だったから
「ああ伊豆のときはやはり風邪だったんだ…」と軽く受け流してしまった。

 第2の兆しが、明けて2007年正月放送部OBのネット交流の場T-Roomに掲示された彼の投稿にある。
  オメデトウございます。
  今年はベトナムの年です。
  4月までは体調管理をシッカリしなければと思っているのですが、年末から首が回りません。
  車で急ブレーキを踏んだところ、よく効きすぎて身構える暇がありませんでした。
  軽〜い頭でしたが、ギクッと前に。軽い鞭打ちになったようです。
  モーラステープを首に貼っているのですが、一時しのぎのようです。
  新年はいいですが、年はとりたくないですね。

 
 この時点で、軽いムチウチ・・・などと片付けず精密な検査を受けていれば…と悔やまれてならない。

 そんな体調であったにもかかわらず1月には、夫人とともに蘇州地方旅行を挙行していたのだった。
 穿った見方をすれば、人生の残り時間をむさぼり急いでいたかに思えなくも無い…。



放送部OB会写真






ヴェトナム旅行



インド北部旅行記




津高放送部OB会T-Room
















蘇州地方旅行
 オケラさんの絶筆 

 何故か彼個人のホームページの片隅に若かりし坊主頭の写真がそっと掲載されているのだが、ホームページの目次からはアクセス出来ない。そのURLアドレスが 仲間内で、試し書きやリンクテスト用に使うべく設定された「実験掲示板」に書き込まれている。再入院の少し前、8/9の朝、彼自身が書き込んだものである。

<A HREF SRC="http://www.okeranke.com/marugari.jpg">これは若いころです。>

文末が  > でなく </A> であればアドレス部分は表記されず これは若いころです だけがリンク表記される処である。こんな単純な記述を誤るなんて彼らしくない。
既に思考力が衰えていたのだろうか?不思議だがどうやらこれが彼のネット上での“絶筆”となってしまったと思われる。
何故、単なるリンクの実験に自画像を使ったのか、坊主頭の自画像紹介が目的なら、何故、メインページの「談話室」に掲載せず「実験室」なのか?
 最後までシャイなオケラさんらしい“ダイイングメッセージ”だったのだろうか…。

実験室からのリンク写真
 オケラさんとの絆

 オケラ(=Okera)、オカッペ(=fuji3*)、オタチ(=☆G*)…などと奇妙なニックネームで互いに呼び合い、先輩後輩たちからも呼ばれあうようになったのは、津高校に進学し、揃って放送部へ首を突っ込んだ頃からである。
 中学時代に学校放送の委員として生まれた仲間意識をそのまま引きずっていたこともあって、在校3年間、教室で顔を見ない日はあっても部室では朝・昼・夕必ず顔をあわせて過ごした。(⇒放送部アーカイブ記録集
 大学・社会人・居住地…と辿る道が次第に隔れて四半世紀過ぎた頃、まるでタイムトンネルを瞬時にスキップいた如くに「ヤア元気?」と再会して、隔年に一堂に会する約束を設定してこの方、顔を見せ合えば昨日別れたばかりの如くに話が繋がる。お互いにお互いの呼吸を感じあえる間柄が沁みついていた。
 結びつける絆は何であるか定かではないが、兄弟に、兄しか居ないオケラさんと弟しか居ないオカッペや小生の間に兄貴を求め、弟を求める何がしかの引力が働いていたのかも知れない。実際彼の方が半年ほど兄貴であったのだが、それ以上に、何事にも一歩先んじられる処が多くあった。
大学に入ってバイクを乗り廻したのも、自家用車を手にしたのも彼が先だった。何事においても、なかなか追い越すことの出来ない“好敵手”でもあった。





津高放送部アーカイブ記録
(TBC-OBアパートページ)



卒業間近の日
 オケラさんの人柄

 次男坊の所為か、一見気まぐれなマイペース型とみられたが、その実は飾り事や取り繕いの出来ない、言うなればシャイなタイプであった。
 お互い乱筆駄文ゆえの筆不精で、紋きり形の年賀状以外に手紙のやり取りはほとんど無かったが、さりとて饒舌家という方でもなく、イデオロギー論や人生論に限らず、口角泡を飛ばして争論するようなことは一度も無かった。
 現役ストレートで大学進学を果たした彼が帰省のたびに、浪人生活を自宅で鬱々と過ごしていた小生を前ぶれも無く訪ねてくれたことがあった。部屋に上がるでもなく庭先から窓越しに、2時間でも3時間でもたわいの無いことを語り合い、お世辞めいた励ましも慰めのことばもなく「ほな、またナ」と去っていく。それでいて何か不思議な“活力源”を残していってくれた。歳を経て隔年に会う程度の交流になってもその語り口には、奢りも昂ぶりもなく、また多くを語ることせず、どちらかといえば優れた聞き役に廻るほうだった。
 小生が旅先で急性動脈解離というやっかいな病に倒れた際も、面会解禁となるのを待っていち早く見舞いに駆けつけてくれたが、なじみの薄い病名をアチコチを事前調査して集めた資料を付き添っていたワイフに「恐ろしくて患者本人には見せられないが、参考に…」と脇でそっと渡してくれたと後で知った。彼の優しい気配りだった。

 シャイな反面、密かにダンディズムを自負していた彼のこと、同期生のなかに“噂のマドンナ”も少なくなかった。が、彼自身は意外にクールで 浮ついた話にはならず、どうやら“想われ役”に終始していた。
 だから、クラブの2年後輩紀久子さんとの予告なしの電撃結婚は驚きでもあったが、彼らしい所業でもあった。




大学受験用ポートレイト
 オケラさんとIT 

津高放送部OBのホームページに記したオケラさんのプロフィールは
 名古屋在。好奇心の塊、自他共に認めるメカ・マニア。本宅(注:彼自身のホームページのこと)を建立し、年数回に及ぶ旧婚旅行記で埋め尽くす …
とある。とにかく新しいものへの好奇心は旺盛であった。
 サラリーマン・リタイア後、早速にパソコンを導入して最初の電子メールした相手も彼だった。
 そんな彼に対して、唯一小生が先んじられたのはホームページづくりで、自分自身のHPを作った後、
放送部OBの共有ページを設定し、真っ先に彼を仲間に引き込んだ。
 当時、デジカメやデジタルムービーを双肩に愛妻との海外旅行に熱中していた彼のこと、その旅行記録を保存する格好の素材としてHPづくりに嵌りこんでいった。しかも、こちらが市販のツール(ホームページビルダー)を使う安直な手法をとったのに対して、オケラさんは、HTML言語で記述する正攻法を選択して来た。そのうちにJavaScriptにも手を染め、どんどん高度なページ作りに先手を打たれてしまった。
今彼のホームページを開くと「手のひらに太陽を」のリズミカルで明るいBGMが飛び出してくる。
  ♪オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きている、友だちなんだ〜 
は彼が自ら選んだテーマ曲だった。
 そういえば6月に手術が成功し抜糸したとの報告メールに、無料で使える蘇州夜曲のMIDI版知らないか?と付記されていた。
 遺作となったそのホームページ“おけら家”の最終更新日はなんと2007/7/31となっている。
病魔の痛みに堪えながらも愛妻との旅の記録ページのブラシアップを続けていたのだろう。

 パソコンを駆使して青春の息吹をいつまでも共有しよう…との主旨で同期生のホームページ『出逢い再び…』を作るのに前面協力して呉れたのも彼だった。
 郷里に「パソコン塾」を開こうと海幸彦*氏達と仕掛けたのは2003年夏ころ。その際の協力要請を快諾してくれ、率先して機材の提供やカリキュラムの作成に汗をかき、発足した塾(TOP32)の月例会ではパソコンの技術指導の核として毎回名古屋から参加して運営に貢献してくれた。月例会のレポートも持ち前の技量を活かして随分と凝ったページを作成してくれた。(TOP32の記録
 ついで愛知県在住の同期生による同じ主旨の例会づくりに倭神豚*氏と共に奔走し、軌道に乗せてくれた。いずれの会でも、決して知識や能力をひけらかすことはなく懇切丁寧な指導ぶりで好評だったと訊いた。(AOPの記録
  TOP32やAOPの例会だけでなく、ネット上で仲間同志が支えあう「パソコン学習塾」においても、アドバイザーとして大活躍してくれた。一時退院した時期7月末にも、「デジカメ動画の保存法」に関する 朋友60Children氏*の疑問に対して実に丁寧なアドバイスをしてくれている。

 入院時も、インターネット環境の整った病室をにこだわり、襲い寄せる痛みと戦い、治療の合間を縫っては仲間とのEメール、Skype通話、そして最後の海外旅行となったアンコールワット・ホーチンミン旅行のホームページ整備に勤しんでいたようだ(未完に終わったのは残念)。

  7月の一時退院後のSkype通信で、
「WindowsVistaマシンを購入する計画だが、CPUはインテルのコアデュオかアシュロン系のどちらが良いだろうか…」などと電気ヤの小生に半ば敬意を払い尋ねつつも半ば入院ベッドの上で仕込んだ自らのウンチクを傾けていた。何処までも“好奇心”に溢れ、意欲に満ちたの彼らしさだろう。










津高放送部OBのホームページ













ホームページ“おけら家”








『出逢い再び…』



TOP-32の足跡



AOPの記録



パソコン学習塾
 心友を想う 

訃報から何日も経つ。
日を追って寂しさがつのる。
心にポッカリと空洞が空いたように虚脱感が拡がってたまらない…。
外科手術による治療が困難のため、投薬に依存したいわば延命治療を続けているわが身も罹病後4年。
今後どれだけ生きられるかは患者本人の心がけ次第だ…と宣告されて、最初は恐る恐る生きて来た。
やがて体調を本能的にキャッチし自動制御する術が身に付いて行動範囲も多少は拡がっては来たが、
制約の多い生活に時にいらだつことも少なくない。
今、生きる活力の源になっているのは家族とともに多くの知己との“ネット交流”である。
なかんづく津高同期の仲間、同放送部OBの仲間に支えられている気でいる。
そのコアともいえるオケラさんの存在は貴重だった。大きかった。その存在の大きさが日増しにつのってくる。
 
胸中に感じる“虚”を埋めるすべを見出せぬままに、改めて気がついた。 
“心友”はやはり心の中に棲みついていたんだ…と。

              オケラさん!やすらかに眠らんことを・・・

 弔 句

 
 墓前にて吾は哭きたや秋の風  (ぼぜんにて われはなきたや あきのかぜ)

 綺羅星の堕ちて心に沁む夜寒  (けらぼしの おちてこころにしむ よざむ)  
 
 汝は往き吾立ち留りし木犀香
  (なれはゆき われたちとどまりし もくせいか)

  来る世も螻蛄と呼ばれに生まれ来よ  (きたるよも けらとよばれに うまれこよ)

Part-2
(メモリアルアルバム)








*はS32ネット交流のハンドルネーム
( 2007/10/10 稿 )


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