寄稿


   伊勢国津藩士



津城址・有造館の入徳門







 2003年3月
   

松岡哲也



 昨年、伊賀街道を描く会の人からお誘いがあり、津城址から伊賀上野城址までの道筋の写生に参加しました。津城址で藩校・有造館の入徳門を描いているうちに、6年ほど前に偶然知った有造館の数学教師・村田佐十郎恒光を思い出し、文章にしてみたくなりました。
 
 村田佐十郎恒光を知るきっかけは、6年前に鈴鹿郡関町の地蔵院に算額が現存すると聞いたので、そこを訪ねたことでした。しかし、その算額は随分前に、亀山市歴史博物館に移されていました。博物館を訪ねて見た算額には、「津藩士……」と読み取れない署名がありました。それで何か手がかりはないかと思って津市図書館へ行ったときに、「新巧算法」という古書を見つけました。その中に地蔵院の算額に示されているのと同じような図を見つけました。書いてある文字も大体同じでした。文の終わりには、村田恒光の名前がありました。 これで、地蔵院の算額の問題の作者は分かりました。  
 そこで見た「新巧算法」の図は、電球のガラスの部分だけを2個つないだような容器の中で同じ大きさの球と、その間にもう少し小さい球2個を入れて、4個の球が一直線に接しています。小さい2個の球の間に12個の小さい球をリング状に入れてあります。文字は、丁寧な楷書ですから大体の意味は感じ取れます。「大きい球の直径を定数としたとき、小さい球の直径はどれだけか?」というような問題ではないかと思いますが自信はありません。文章ではわかりにくいので写真を入れておきます。写真の撮り方が悪く、同じ大きさの球の大きさがちがって見えます。この問題は、たとえ、解答を見せていただいても私には理解できるようなものではありません。 

上:津市図書館 有造館文庫 新巧算法

右:関地蔵院の算額


 それから、村田恒光について調べてみました。村田家では代々、佐十郎を襲名しています。佐十郎恒光は、弟子たちと一緒に、長崎の海軍伝習所 [安政2年(1855)開設、安政6年閉鎖]へ勉強に行っていました。伝習所は、3期生までで終了しました。繰り返し受講した人もいたので、受講生の数え方はいろいろあるようです。各期の定員は約270名でした。中公新書に出ている氏名を数えると第1期生は幕臣200人ぐらいと、地元の佐賀藩から40人ほどいたようです。その後、諸藩からの伝習生は180人ほど来ています。佐賀藩は断然多く80人ぐらい、福岡藩38人、鹿児島藩25人、萩藩15人、津藩14人と続いています。後は熊本藩6人、福山藩4人、掛川藩、田原藩が各1人です。

 長崎海軍伝習所について、勝海舟は、佐賀藩のことを随分ほめていますが、津藩については1行も触れていません。和算の歴史の中で、その業績が認められている村田佐十郎恒光が伝習所の中で目立たないわけがないと思うのは、津で生まれ、その周辺で育った人間の身内びいきでしょうか。勝海舟の記録もかなりの漏れがあるようなので、それほど気にしなくてもいいのかもしれません。しかし、恒光が幕府からどのように見られていたのかが少々気になります。
 関係のありそうな本、『三重県教育史』から引用すると[1862(文久2)年6月から・・・幕府海軍の咸臨丸と併行して、伊勢湾並びに志摩沿岸を測量している。これは、それより前、アメリカの測量艦長ジョン・ロッジイが日本近海の測量を幕府に願い出たが、幕府では特に伊勢・志摩の海は伊勢神宮との関係が深いので、その許可を引き延ばすとともに、幕府海軍の手によって尾張・伊勢・志摩三国の海岸を測量することにしたが、この時、津藩では、村田や柳がいるので「家来ドモ可成、心得居リ候者モ御座候ニツキ・・・」と申し出て、両人に独自の測量をさせたものである。] と書いてありました。佐十郎は伝習所で学んだ技術で測量しているのです。原稿図と野帳(測量の記録)は海上保安庁が保存しているとのことです。

 『三重県教育史』では、「津藩には優れた測量師がいた。」と言う意味で書いていますが、私としては、長崎海軍伝習所へ勉強に行っていた村田佐十郎を幕府方が知らないはずはないと考え、幕府が佐十郎の名前を挙げてこないのは何か理由があるのではないかと考えてみました。
 「航海学の必要を説き、実業家に興起を促したが、幕府に咎められた」という坂部広胖[1759(宝暦9)〜1824(文政7)]が出版した「精要算法解」(津市図書館有造館文庫所蔵)の校閲者として恒光の祖父である佐十郎光窿[1747(延享4)〜1831(天保2)]の名前が出ています。光窿は、広胖と仲は良かったのだろうと思います。佐十郎恒光は、祖父を通して広胖の考え方を受け継いでいるだろうとは思います。しかし、これだけで、いろいろと判断するのは無理がありそうです。それよりも、村田佐十郎の藩からの禄高が80俵であったということと関係があるかも知れません。円周率が3.16より3.14の方が真の値に近いことが知られてからも習慣上3.16がよく使用されたという時代にあっては、実力よりも社会的地位のほうが優先されたのかとも考えます。

 私が知った三重県の和算家は、津藩の村田光窿と恒光とその弟子、亀山藩の堀池敬久とその子供の久道ぐらいです。堀池敬久は村田光窿より26年ほど後で生まれているので、光窿の孫・村田恒光と、敬久の子・堀池久道とは、それほど年齢差はないものと思います。しかし、その性格はかなりちがうように思います。堀池敬久・久道は、算額を20面ぐらい奉納していますが、現在では1面だけしか残っていません。村田光窿・恒光が、自分の名前で奉納した算額は1面もありません。( 注:深川英俊著「全国算額一覧」による。)  >算額は、難しい問題が解決したことを神仏に感謝して奉納するものとのことですが、実際は、「自分はこのような難しい問題を解いた。誰かこれを正しく解くことができる者はいないか」と言う掲示板のような役割を果たしていたようです。恒光は「新巧算法]の序文で藩主のご意向によりという意味と思いますが、『台命』という文字を1段と高いところから書いて、藩主に敬意を払っています。そして、序文の最後に、「如訥邨田恒光識」(じょとつ むらたつねみつ しるす)と書いています。光窿の号は如拙です。如拙・如訥とはずいぶん控えめな号だと思います。
 
 『津市・久居市の歴史』によると、「津藩では嘉永元年(1848)贄崎波止場を改築し、同7年には贄崎灯台を改築、安政6年には西洋型の藩船・新風丸を建造したが船頭町の船入場では狭いため、その基地として新堀港の開削も同時に進められた。町民の御手伝人夫を募り、5月着工、8月完成した。」とあります。
 津市図書館所蔵の「測量稿」は贄崎波止場改修のころに書かれたことになります。その中表紙は、次のようになっています。よく見えない字もあるので、書き直しておきます。


測量稿中表紙
  (津市図書館 有造館文庫)
 

   
  
測器
 六分圓器
 安架針盤
著者注|津海岸夜燈より所望の地に至る距離

自津海岸夜燈至所望之地距離

嘉永六年

癸丑

九月 十月
茅原礒右衛門
 治教


池田
 益三郎
 定徳 


 芳太郎
 楢悦


村田

佐十郎

恒光

 測量
 
 
 
      
 「測量稿」には美しく彩色された絵図が描かれております。その内容は、
○贄崎の夜灯から伊勢湾を眺めた遠くの朝熊山・伊倉津の塩竈神社・米津・塔世川までの図、
○香良州・塔世周辺の詳細図、
○遠くは信州・尾州までの図、
○山は錫杖岳・信州御岳・矢頭山・布引・長谷山・経ヶ峰などを図、
○測量した数値
などです。
 佐十郎恒光は、他にもいろいろな本を書いています。その内容は測量、和算、土木と広い分野にわたっています。
 津市贄崎にお台場が築造されたのは1863(文久3)年でした。幕府海軍と併行して伊勢湾及び志摩沿岸を測量した翌年のことです。恒光は、引き続きお台場の築造に携わったのではないかと思います。そのことを書いてある本はまだ知りません。多分、恒光は、柳楢スその他の弟子と精力的に、この仕事に携わっていると思います。お台場のあった場所は近鉄道路の岩田川北詰です。  
 恒光の家は、現在の津市体育館の近くでしたから、お台場までは、歩いて10分でしょうか。恒光は、明治3年に亡くなっていますから、お台場は晩年の大仕事だったと思いたいのです。恒光の生まれた年がわかっていませんので、この時何歳であったかは分かりません。
 現在では、お台場は昔の面影をまったくとどめておりません。このことを多くの人々は大変残念がっています。

                                
「測量稿」の図
                 
明治末期の贄崎砲台
(「津市久居市の歴史」より)


   
〜あとがき〜
 
 村田佐十郎恒光を知ったのは、6年前の偶然からでした。それまでは図書館の郷土資料室を覗いたこともありませんでした。昨年、伊賀街道を描く会からの誘いがなかったら入徳門を描くことも、佐十郎恒光を思い出すこともなかったと思います。思い出したら書きたくなり、書き始めたときは、以前の記憶をもとに簡単に書き終わるものと思っていました。しかし、始めてみると記憶が余りにも不確かでした。 あまり読むことのできない古書を眺めて、文字を追い、そこから浮かび上がる事柄を書いたので、まちがいもあろうかと思いますが、それも、幼児期に家からお台場の森を見て育った者の深い思い入れとしてお許しください。   


   



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