沖縄旅行の記           
2006.5.13   梅本貞治

 津高32年卒の友人であるK氏のご子息が、沖縄で子供対象の自然学校というのを開いていて、彼自身も近くにアパートを借りており、数人なら泊まることも可能なので一度来てみないか、と言いう話がしばらく前からあり、一度希望者を募ってみることになったのは、昨年のことであっただろうか。
 新年の同窓会の集まり以後、徐々にこれが具体化し、日程も5月9日から4日間と決まって、募集に応じた人は、最終的には男性7人女性11人となり、これではK氏のアパートにも泊まれないので、ホテル利用となって、それ以外の日程、観光ルート等は、K氏にとりあえず立案をお願いすることになった。K氏の知っている現地の観光社の手で、詳細な日程表が作られ、ホテルの確保、部屋割り、夕食、二次会の手配まで滞りなく進んで、出発の日を待った。
 5月9日、火曜日、津の天候は薄曇り。風が吹くと、中部国際空港への船便は欠航することがあるがこの日は何の問題もなく、8時40分集合で9時発の便に乗る。津からは、12人が同行、あと東京からの4人(1人は1日遅れ)、大阪からの2人とは那覇空港で合流することになっている。津なぎさまちから出た船は、最初少し揺れたが、航行には問題なく、空港に着き、10時30分、無事全員機上の人となる。今回の航空券は、事前に送られてくるのでなく、空港カウンターで、発券機に予約番号をインプットする方式になっていて、誰も初めてのことで若干とまどいがあったが、カウンター内の男性係員が、我々の顔を見て心配になったのか、すべて手続きをやってくれた。


 那覇には、予定どおり12時45分に着く。空港の通路にはいかにも南の国らしく、鉢植えの色鮮やかな花々が飾られている。東京組、大阪組が着くまでの時間 昼食をとる。ソーキそばという、豚の骨付きあばら肉を柔らかくなるまで煮た、ソーキと称するものを載せた沖縄そばを食した人は、これを美味しいという人と、油濃すぎると言う人とに別れた。そばそのものは、皆さんあまり感心しなかったようである。その後到着した、東京組、大阪組とは、出口近くの水槽前で無事合流でき、貸し切りバスで、読谷村に向かう。現地の添乗員が待っていて、バスまで案内。この人は、仲村さんと言う、沖縄生まれの、まだ若い、目の鋭い人である。
那覇空港で関東組と合流
那覇空港で関東組と合流
 那覇から読谷村まではバスで1時間と少し。大都会である那覇は大きなビルも多い街だが、同じような景色の中いつの間にか、浦添市、と言う表示に変わり、嘉手納町に入ると広々と米軍基地が広がる。読谷村に入っても、大きなものではないが米軍の施設らしきものが、いろいろと目に付く。向こうの方に大きなホテルが見えてきた。今夜から3泊する、残波岬ロイヤルホテルである。ホテルに入って、若干説明を受ける。大きなホテルで、今夜は約1000人の人が泊まるのだそうな。
 荷物を部屋に置いて、「むら咲むら」と言う施設に向かう。「むら咲むら」は、NHKの大河ドラマ「琉球の風」に使われたセットを、移設してきたものだそうで、琉球風の建物がいくつか置かれており、それらは、紅型・三線・黒砂糖・トンボ玉等々の製作体験施設になっている他、空手道場・中国使節の迎賓館・闘牛場・踊りの舞台等々がある。この中に、K氏の子息が運営している「よみたん自然学校」がある。石灰岩の塀に囲まれて赤瓦、木造の昔風の建物があり、ここでは子供達を、自然との関わり、人との関わりを通して育てて行くという活動をやっているとのこと。K氏の子息と、その奥さんは、2人の子供と1日の大半をここで過ごしている由。下の子は、男の子で、生まれてまだ1と月半とかで、この子を抱いたK氏のおじいさんぶりが微笑ましい。
よみたん自然学校にてバーベキューパーティー
よみたん自然学校にてバーベキューパーティー
中を一通り歩き回った後、近くの海岸に行く。ここは東シナ海である。緑の丘に囲まれた海岸は、波が静かで、水も美しい。皆しばらく、俗事を忘れて、時を過ごす。夕食は自然学校の中庭で、バーベキュー。えび・いか・ほたて・牛肉・野菜。子息の友人が、別にオードブルも作ってきてくれた。 ビールはオリオンビール、そして当然のことながら、泡盛を飲み、夜が更けて行く。ホテルに戻って、入浴、就寝。 

 明けて5月10日、朝食は13階の大食堂で、ビュフェ形式。東京方面の養護学校からの団体が来ていて、見ているとその先生方の苦労が偲ばれた。今日は、沖縄、中北部観光。大型観光バスを利用することになっていて、17人だから席には余裕があって楽に乗っているこ県花“ディゴ”とができる。ほぼ海沿いの道を北に向かって走る。道ばたには、ブーゲンビリアが沢山咲いている。沖縄の県の花、デイゴの花も見られる。時々、ハイビスカスもある。沖縄の民家は、昔は、赤瓦を漆喰で固めた屋根のものが普通だったが、その後それがセメント瓦に変わり、今はコンクリート造りの家が普通になっている。2階建てであれば、2階に必ずと言っていいほど、バルコニーがあり、それらが並んでいる感じは、南欧か、ハワイを思わせ、花々ともあわせて、日本の風景とは少し違っている。適当な間隔で、リゾートホテルがあり、何処にも美しい海があることを教えてくれる。
 まず着いたところは、万座毛。かつての琉球の王様が、ここに来て、万の人々を座さしめるに足る、と言ったという、毛(平原のこと)と言う意味で、万座毛という。その毛、には入れないがその周囲を遊歩道が巡っている。海を臨む崖の上から、東シナ海が真っ青に、広々と眺められ、浸食によってできた奇岩が見られる。よく見ると、男女の顔が向かい合ってささやきあっている形にも見える。さらに歩いて行くと、小さな湾があり、中央に夫婦岩のような岩があって、やはり注連縄が張られている。向こうに岬の上には、大きなホテルがある。パイナップルのような実をつけた木があり、ガイドさんに聞いてみると、これはアダンと言う木だそうな。ガイドさんは、新里志津江さんという、とても表情が豊かで、話しぶりもはっきりしていて、メリハリがあり、とても良いガイドさんだった。きっと演劇部に入っていたのではないかと噂したが、定かではない。

 バスはさらに北に向かって走る。部瀬名岬と言う岬のそばを通る。ここにはかつて、沖縄サミットが行われた万国津梁館があって、遠目に眺められた。名護市の中心街を過ぎて、本部(もとぶ)半島を海沿いに走ると、間もなく瀬底島が見えてくる。本部半島と橋で繋がっており、さらに向こうには、水納(みんな)島という小さな島が見られる。周囲がずっと白い砂浜で囲まれ、南太平洋の珊瑚礁の島のようだ。本部半島の先端は、かつて沖縄海洋博が開かれて所で、今は海洋博公園になっているが、ここに本日の目玉である、美ら海(ちゅらうみ)水族館がある。公園の入り口のゲートに来ると、緩やかな階段、坂道が海に向かって伸びている。海の向こうには、伊江島と言う島が見え、平べったい島だが中央にぽつんと尖った山があって面白い形。ベコニアの鉢植えがあちこちに置かれて、美しく咲いている。水族館に入る。
色鮮やかな熱帯魚
ジンベイざめ
まず、珊瑚の海がある。珊瑚礁の海を、天井を取り払って、自然のままに近い状態で見せている。続く熱帯魚の海には、色鮮やかな熱帯魚や、大きなハタの類が悠々と泳いでいる。そして、次の大水槽の中には、7.5mのジンベエザメが3匹もいて、世の中の風をよそに、ゆったりと泳いでいる。初めてジンベエザメを見たのは、大阪の海遊館で、このときはその大きさに驚き感激したが、沖縄の地でこれを見るとまた違った趣があり、見るものを飽きさせない。半円形のガラスのトンネルがあり、そこで見ると頭の上をこの巨大な魚が通り過ぎて行くが、真上に来たときは、辺りが一瞬暗くなるほど。ここには、オニイトマキエイ(こちらの呼び方で、マンタ)もいて、これも畳3畳以上と思われ、その大きさに見とれる。これらを一望できるアクリルパネルの大きさは、たて8.2m、長さ22.5m、厚さ60cmと言うもので、流石に透明感には不満もあるが、そのスケールは見事で、時間の経つのを忘れ、何時までもその前に座っていたいと思う。水族館にはこの他、いるかのショー、マナティ館、ハイビジョンシアター等々、まだ見たいものが沢山あるのだが、もう出発時間が来た。残念だが、バスに乗らなければならない。なお、この公園には、まだまだ多くの施設があって、これらをすべて体験するには、1日でも足りないと言う。

 昼食会場に向かう。ここの名前は忘れたが、昼食は、沖縄料理の幕の内とも言うべき内容で、アロエの刺身、天ぷら(紅いも、バナナ、あおさ、よもぎ)、ソーメンチャンプルー、ゴーヤチャンプルー、パパイヤと人参の千切りの炒めもの、サーターアンダキー(沖縄のお菓子)、パパイヤキムチ、あおさのスープ。それぞれ美味しいが、それ以上に珍しさに話題が集まる。ここには、植物園があり、遊歩道を歩けるのだが、丁度スコールがやってきて、遠慮せざるを得なかった。
 名護パイナップルパークでは、まずカートに乗ってパーク内を一周し、珍しい貝を集めた資料館を見、パイナップル・パイナップルワイン・各種ケーキ等を、試食、試飲する。このあと、お腹の調子が悪くなった人がいたが、これはパイナップルの過食が原因であったようだ。 このあと、東南植物園と言うところに行く予定であったが、パイナップルパークとあまり変わらないと言うので、時間の関係もあり省略することになった。このあたりは、同級生ばかりの気楽な旅で、スケジュールも融通無碍に動かせて面白い。高速道路を南に走って、コザの街に行く。今は、合併して沖縄市と名を変えているが、その昔は「コザ市」と言って、全国で唯一、カタカナの名を持つ市であった。そのコザで、我々は沖縄の歴史について話を聞き、身を固くする思いを味わうことになるのだが、それはもう少し先のこと。
 添乗員の、仲村さんは、これからコザの街中を案内します、と歩き出す。雨が降っているが、大したものではない。商店街にはいると、最近の地方都市にどこでも見られるシャッターを下ろした店が目に付く。とはいえ、人はそれなりに歩いていて、津の中心街の寂しさよりは、少しましかなとも思う。衣料品の店が多く、価格はとても安い。沖縄土産の店に入る。あまり購買意欲をそそるものはないが、やはり一番目に着くのは泡盛。もっともこれは、私或いは男性の目だからかも知れない。コーヒー店に入ってしばらく足を休めると共に、今朝東京をでてきた、Iさんを待つ。彼女は一旦ホテルにチェックインした後、タクシーでここに駆けつけた。
 再び街中を歩く。大通りにでると、英語の看板も多くなる。ここは米軍基地の人たちの多い街である。派手なデザインののドレスを並べた店がある。仲村さんは、ここでしばらく待って欲しいという。何かと思えば、ここで、これからの案内、夕食会場への案内を次の人にバトンタッチするとのこと。来た人は、新垣さんと言って30代半ばの、これもなかなか鋭い顔をした人で、K氏の子息の沖縄での友人で観光業者的仕事をしている人だそうな。彼は、まずコザの街についての概要を説明したいと言って、街の中央の交差点の歩道橋の上に我々を連れていった。そして、コザの中心街を目の下にしながら、彼は淡々と話してくれた。沖縄での戦争について、沖縄返還について、基地の問題について、ベトナム戦争時の状況について・・・。感情を高ぶらせることなく淡々と話してくれたその内容に、我々は襟を正して聞き入った。私はどちらかと言えば、保守的な人間であるが沖縄という地に来て、そこに生まれ育った人から、このように話を聞くと、その問題の底にあるものを、そして平和の大切さを、やはり心の中に感じざるを得ない。彼はまだ若くて、自身が体験してきたことではないけれども、沖縄の人たちはそのことを、ずっと語り継いでいっているのだろう。いろいろ聞いた話は、ここでは省略するが、沖縄での戦争の始まりは、1945年4月1日で、その終わりは6月23日であり、6月23日は沖縄は休みであって、この日には正午に全員が黙祷を捧げるとのことである。
沖縄料理「サバニ」にて参加者勢ぞろい
  沖縄料理「サバニ」にて参加者勢ぞろい
夕食は、歩いてすぐ近くの「サバニ」と言う店で、沖縄の主として魚の料理。サバニ、というのは沖縄で使われている、小さな漁船のこと。料理は、マグロの刺身酢味噌つき、煮魚(現地では、エイグァと呼ぶそうな)、サヤインゲンの天ぷら(味つきでそのまま食べる)、豚肉の煮物、菜っぱと生麩と卵を炒めたもの、魚の唐揚げ(グルクンと言う名)、あおさスープ。他にもあったかも知れないが、このときはメモを取るのを忘れていた。さらに、二次会が「アップルヒルズ」という店で、2時間貸し切りであり、花とか、涙そうそうとか、サトウキビ畑とか、沖縄の歌を唱って盛り上がったが、記憶は若干朦朧としている。ホテルにはタクシーで帰った。約30分と運転手は言ったが、時間はともかく、料金は3050円で安かった。沖縄は公共交通機関があまり発達して居らず、タクシーがそれを補っているとかで、安いらしい。次にどこかで乗ったときに気がついたが、初乗りも確か450円と安価であった。

 次の日からのことも、書き出すといろいろあり、記録には残したいのだが、あまり長くなってもいけないので、簡単に記述する。
首里城守礼の門で
首里城守礼の門で

 訪れたところは、首里城、沖縄ガラス村、ひめゆりの塔と資料館、平和祈念公園(摩文仁の丘にある)。この日は行ったところが、戦争に関するところが殆どで、ガイドさんの説明も、昨日の新垣さんの話と同様、考えさせられる所が多かったが、これも省略する。ただ、平和祈念公園の中に、平和の礎(いしじ、と読む)と称して、沖縄で亡くなった人の名を黒御影石に刻んだ碑があり、これが県別に並んでいて、平和祈念公園にある三重県人の慰霊塔三重県の人も本当に沢山亡くなっていることを知ったが、徹底的に焦土とされた沖縄において、このような記録を残してゆこうとする努力が、熱く感じられた。今日1日早く帰るF氏を空港に送って、バスはホテルに帰った。今日の夕食は、ホテル近くの「ふるかた」という店で、沖縄会席料理。メニューは、海ブドウ、落花生のとうふ、ドゥルクカシー(田芋をつぶしたもの)、クーブイリチー(昆布の炒めもの)、ミンダル(豚肉と黒ゴマ)、ウラチキキノク(椎茸に魚のすり身をつけたもの)、スンシー(しなちくと昆布とコンヤクをあえたもの)、ラフティー(これは有名な豚の角煮)、グルクンのフライ(和名はタカサゴと言うそうだが)、トンハン(豚飯に汁をかけたもの)、デザートは、タンオファ、クルー(タンカンと言うミカンと、トマト、もう一つは何だったか・・)、サーターアンダキー(甘いお菓子)。面白かったので現地語で記録したが、名前を聞いただけでは、何のことかさっぱり分からないだろう。
 最後の日は、ゆっくりとホテルを出て、那覇の国際通りを歩き、牧志公設市場の中の魚屋で、魚を注文してこれを2階の食堂で料理してもらい食べるというコースをとった。大阪、東京組は一足先に空港へ。津組は、いくつかのグループに分かれて、散策の後、空港に集合、到着地で、一人の人が、預けた荷物の半券を紛失して、受け取れなくなると言うハプニングもあったが、予定通り、全員無事に津に帰り着くことができた。沖縄は真夏のようで、大いに汗をかいたが、帰ってきた津は、寒く感じるほどであった。計画からの一切を取り仕切ってくれたK氏、会計を担当して無事、剰余金を生み出してくれた I さんに、感謝を表しておきたい。
 後日の話だが、牧志公設市場で注文した中に大きな貝があり、名前は夜光貝と言うものであったが、その殻を持ち帰っても良いというので、物好きにも重さ2kg以上のそれを持って帰った。家に着いた頃、その名前を忘れていたので、翌日電話し、「先日、持ち帰った貝のことですが・・」といったところ、すぐ「ああ、名前ですね、あれは夜光貝といいます」と、すかさず返事。同じことを、聞いてくる人が結構あるのだろう。さらに、それは一晩、漂白剤につけておいて、その後表面を綺麗にする必要があるとの話。なぜ、渡すときに言ってくれないのかと、むっとしたが、ともかく言われるようにしてみた。表面には、フジツボのようなものが付着していて、異臭を放っており、これをこそげ落として、洗い直し、ようやく飾れるようになり、今は、我が家の出窓に鎮座ましましている。夜光ることは無いようだ。

終わり  

photo by DEKO


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